◆昭和53年新本堂落慶記念に発行された「妙法寺史」の記述をもとに、当山の縁起をご紹介します。
今日の妙法寺の源流は明治30年に開設された「日蓮宗説教所」に発します。
故にこの年を「妙法寺開山の年」としています。
この説教所開設に力を尽くした人は阿部格太郎(あべかくたろう)氏ですが、阿部氏は妙法寺開基の恩人であるとともに旭川市開基の功労者でもありました。
阿部氏は旭川開村の前の24年6月、ほ通四丁目(今の一条五丁目右3号)で、駅逓を経営しました。駅逓というのは官設の旅館ともいうべきもので、開拓時代の交通通信、集会などの中心となったものですから、阿部氏は、いわば旭川村の世話役という立場にあったのです。
また、明治26年に私設忠別消防組ができると、その初代組頭になっていますから、今日の旭川消防団の創立者ということにもなりますし、忠別尋常小学校設立にも奔走しております。さらに、函館本線(当時は上川線と呼んだ)期成会の幹部として鉄道誘致にも力を尽くすなど、旭川のために尽くした功績は非常に大きいものがあります。
同時に阿部氏は熱烈な日蓮宗の信者でもあったのです。
明治28年に旭川村は市街地の町名を変更しましたが、それまで「いろは」で呼んでいた通り名を“町”に改めました。
その時に「寺町」という名が登場します。この寺町へそれまでの各宗の説教所が寺を建て始めるのですが、その敷地は賃下げといって無料で交付されたのです。真久寺、善光寺、大休寺などがそれぞれ建設準備に入ります。
こうなりますと日蓮宗信徒にとっても、何とか一寺がほしい−同じ信徒である阿部氏に一肌脱いでほしいと一同が懇請します。
これを受けて阿部氏は、明治28年の春、雪解けを待って函館に向かいます。
目指すは函館実行寺です。旭川から函館への旅は、今と違って容易なものではありません。全て順調にいって片道十日、余裕をみれば往復一ヶ月の旅です。
阿部格太郎氏が訪れた実行寺の住職は、第17世 松尾潮円(まつおちょうえん)師といいました。潮円師に会った阿部氏は、旭川村の様子、信者のこと、寺院敷地の交付状況などについて詳しく説明します。この話を終始熱心に聴き入っていた潮円師は
『それでは菱谷寿延(ひしやじゅえん)を派遣しよう』
と、快諾しました。
現妙法寺は山号を「延寿山」といいます。山号由来の詳細については判明しませんが、この菱谷寿延から出ていることだけは確かなようです。寿延という語は個人の延命長寿を願う意が強いのですが、山号の延寿となると一般大衆を対象とした感が深い語です。おそらく延寿山とつけられたのは、そのような願いがこめられていたと推測しています。
明治28年の夏、菱谷寿延は旭川村に日蓮宗開教のため赴任してきました。とりあえず阿部氏始め、信徒代表と協力して寺院用地を取得せねばなりません。すでにこの時には他宗の寺院が出願していて、寺院用地に予定されていた寺町一帯に余地はなかったのです。このため北海道庁は一般宅地の中で、寺町に隣接する土地(現在の五条七丁目の左1号から8号まで)の賃下げを通知してきました。
この時の出願人は、松尾潮円師、阿部格太郎氏、小田熊次郎氏、及川菊之助氏の四名の名義になっていました。
しかし、この土地賃下げには制約事項があり、それは『2年以内に50坪以上の「公衆礼拝用に供する建物」すなわち寺院を建築しなければならない』というもので、もしできないときは没収すると定められていました。
さっそく新院建設費の寄付募集が始められますが、明治29年の夏のころには大体の募金が終わっています。工事入札は明治29年7月28日、請負人は旭川兵村の大工で、信徒でもある阿部叔蔵氏でした。
新しい寺院の建築仕様は、「木造柾葺平屋、間口6間、奥行5間の建坪30坪」のものでしたが、明治29年12月22日に竣工しました。
こうして明治30年新春、新住職菱谷寿延師は「日蓮宗説教所」と、木の香も高い寺標をかかげ、旭川村をふくむ上川一円の布教に当たることになりました。
それから一年後の明治31年12月16日、寿延師は越後高田の法光山長遠寺に去りましたが、その後の一切を託したのが、釈 英儀師だったのです。
▲このページのトップ
延寿山妙法寺開基、釈 英儀上人は「真乗院日円」と号しますが、現住職の釈
英照師の祖父に当たります。
慶応2年5月11日、京都府宇治郡小栗栖村の幡山市郎兵衛の三男として生まれました。生まれつき大変利口な子でしたので、歳わずか6つの時、京都府伏見区東大手町にある日蓮宗の本教寺という寺に入り、住職の釈
英慈上人(日領と号す)について学問を学びました。日領上人は英儀少年の勉強ぶりや、あるいは日常の様子を見て、「この子はただ者ではない。将来わが釈家を継ぐにふさわしい」と思い養子にいたします。
明治9年5月、10歳のときに得度、同15年から高僧に就いて宗学を研究、同17年宗学林卒業、進んで檀林に入って同21年に全学科を卒業していますが、成績が良かったために、紫袈裟を授けられています。時に22歳。
卒業後但馬、つまり兵庫県城崎郡日高町にある妙光寺8世住職となり、23年、同じ日高町の立光寺第22世住職として招かれて就任しています。
明治29年には兵庫県下でも格式の高い寺といわれる豊岡市九日市上町の「勝妙寺」第31世住職として赴任していますが、この前年の28年には「布教伝道、寺門経営の功」により、身延山から「権大講義」という栄誉を与えられています。
英儀上人はかねてから、日蓮宗の宗勢が他宗派に比べて振るわないことを嘆いていましたが、たまたま北海道旭川町で日蓮宗説教所住職の後任がなくて困っているという話が伝わり、北海道に渡る決意をします。まだ31歳、血気さかりのころです。
この頃英儀師はすでに妻帯していて、妻
みて、それに養子の峰三郎(当時16歳)の三人が雪も深い北海道旭川に向かいます。明治30年12月のことです。
▲このページのトップ
釈 英儀師は明治30年12月16日、日蓮宗説教所を菱谷寿延師から譲渡を受け、これを経営し以後、布教伝道に当たることになります。
先にも記述したとおり、この説教所のある土地はもともと「公衆礼拝に供する建物」−すなわち寺院建立地ですから、2年以内(明治31年まで)に最小限50坪以上の建物を建てなければ没収されることになっていました。
説教所は30坪です。
着任早々の英儀師はまず、この問題にぶつかります。
おおよその区分をしてみました。五条七丁目の左1号から8号までのうち、3号から7号までを境内地、1、2、8号を附属地として、この境内地内に増築を計画します。その増築、新築計画は−
(1) 既設説教所30坪に、22坪を増築し、これを仮本堂兼庫裡とする。
(2) 参詣人休憩所(8坪)を新築。
(3) 別に附属建物(33坪)を設ける。
というもので、合計63坪の新築工事をもくろみました。
英儀師にとって旭川村は西も東もわからない、誰ひとり知人も頼りになる人もいない土地です。それに、この明治30年から31年にかけては歴史にも残っているほどの不況年で、全国的に米価が暴騰し、経済界には不景気風が吹きまくっていました。
そういう時期ですから、お寺への寄付などはなかなか難しいのです。英儀師の苦労は察するに余りがあります。
とりあえず既設説教所の増築分22坪だけが31年に完成し、道庁に報告します。これに対し、32年1月に道庁から「土地成功ニツキ付与スル」という通達がありました。土地成功とは賃下げを願い出た土地は目標を達した−この場合寺院建立ができた−ので(土地を)無償で下附するということです。
この経過を見てもわかるように、英儀師にとって五条七丁目8戸分の土地は、何物にも代えられない−自分の血と汗の結晶のように貴いものであったわけです。しかし、土地の所有権者は願い出た松尾潮円師はじめ、地元信徒等4名の名義になっていました。
英儀師の苦闘は続きます。
残る参詣人休憩所と附属建物、合わせて40坪の新築工事をすすめなければなりません。ところが、明治31年は大水害のあった年で、7月、旭川では水害のため市街地は見渡す限り氾濫し、ついたばかりの鉄道や堤防などにも被害を出しております。そして9月には7日以来道内は大暴風雨に見舞われ、死者が250人も出るような大きな被害があり、旭川近辺では鷹栖橋も流されています。
こういう有様ですから、寄付は思うように集まりません。
英儀師の手記の中に「明治三十二年一月、土地成功ノ付与ヲ受タリ爾来引続キ苦辛ヲ経テ」と書かれた一節がありますが、この「苦辛」という一語に千万無量の想いがこめられています。
とにもかくにも32年8月にとうとう計画どおりの工事が竣工し、それまでの日蓮宗説教所の看板をはずし、新たに看板を掲げました。
「稲荷山
法華寺」がそれで、明治33年8月のことです。
これを後の妙法寺創立の年といたします。そして翌9月に開堂の式を行いますが、この時、釈
英儀師は身延山に貫首の来旭を強く懇請しました。
これを受けて身延山久遠寺第78世貫首、豊永日良上人が北海道巡錫、旭川での稲荷山法華寺開堂式典に臨席されております。
故に日良上人を当山の「開山の祖」といたしております。
このとき、豊永日良上人に旭川村はどう映ったことでしょう。
明治33年の8月31日に旭川村は「旭川町」と改称されていますが、このときの戸数は2,777戸、人口は8,729人です。23年の開村当時に比べると人口で4倍、戸数で5倍ですから、10年の間の伸びというものはすさまじいものがあります。
31年には上川鉄道(滝川〜旭川間)が開通、また32年から33年にかけては十勝線や天塩線にも汽車が走り始めました。さらに、陸軍第7師団が旭川に設置され、その工事が32年から始められました。今の金額にして1,000億円以上といわれる巨費を投じたその工事のために、旭川はそれこそ「沸くような」景気であったのです。
お寺の方でも33年8月には真宗本願寺派説教所は慶誠寺と寺号公称の認可を受けていますし、真宗大谷派本願寺札幌別院旭川説教所も10月には旭川支院と改称し、檀家もそれぞれ増加しています。
こういう様子を見て、日良上人は旭川町に日蓮宗の立派な一寺を建てようと決心しました。
▲このページのトップ
日良上人は一寺建立のための方法として−
(1) 日蓮宗「旭川別院」建立のため身延山から金5万円を支出する。
(2)
現在の法華寺は廃寺とし、その地所を別院に提供する。
−この二つを指示して旭川を去ります。
米一俵が5円もしないころの5万円は、それこそ目もくらむような大金です。これで別院を建築すれば堂塔壮大、絢爛豪華な大伽藍のできあがることは目に見えています。その結構なことは旭川町内はもとより北海道でも比を見ないものとなりましょう。
信徒総代ともいうべき阿部格太郎、小田熊次郎、及川菊之助の各氏、それに函館実行寺の松尾潮円師(この時は日良上人に随行して来町していました)−いわば最初の説教所開設から力を尽くしてきた人びとは双手を挙げて賛成します。
ところが、この案に不賛成の一団がありました。この人たちは名望家でも財産家でもない、いわゆる(敢えて言えば)庶民檀信徒ともいうべき人達で、法華寺建立のために、それこそ血を吐く思いで募金をし、自ら土を運んだ苦労を重ねています。
釈
英儀師と共に法灯に火をともし、苦心惨憺してどうにか法灯を守ってきた人びとです。
仮に名付けてみれば、前者を「主流派」、後者を「反主流派」とでも表現できるかと思いますが、その反主流派の主張は、
「現、法華寺は生やさしい努力でできたものではない。われわれはたとえ、みすぼらしいものであってもこの法灯は絶やさない。身延山からの交付金で別院を建てるのなら、それはそれで結構、別に土地を求めて建立すべきであろう」
と、主張し両派の意見は相容れるところがありません。
寺院建立をめぐっての内紛はこうして起こり、永く尾を引くことになります。
明治34年の浅春、身延山からは執事の保科宣直師が函館実行寺の松尾潮円師と同行来旭し、別院建設の促進をはかります。
この人たちと阿部氏等三人は協力して法華寺をこわして、土地を提供するよう反主流派の人々に面接して接捗を続けました。
反主流派の人びとは「ご本山のお声がかり」を楯に強硬に立退きを迫る主流派に対し、感情的な対抗意識をむき出しにし、いっそう団結を固くして一歩も退きません。
こうして法華寺の土地をめぐって抗争はますます激しさを加えたのです。
中間に立つ形になった釈
英儀師は、ここに一つの和解案を両者に示しました。それは、
「現在の法華寺所有地を売却し、旭川町内の適当なところを求め、そこに別院および法華寺の両方を建てよう」
と、いうものでした。
この案は一見合理的に見えますが、よく考えてみると極めて非現実的なものでした。しかし他に打開の方策はないとのことで、これを実行に移します。
まず、五条七丁目の左1号から6号までの六戸分(一戸分=162坪、計972坪)を3,100円で旭川町二条十四丁目の川北佐太郎氏に売却しました(坪当たり3円20銭)。新しい「両寺」建設用地としてはウシシュベツ(当時は十三丁目以東を全てこう呼ぶ)、今の六条十九丁目の土地7,800坪を桧垣吾六氏から1,700円で買収しました(坪当たり20銭)。新用地7,800坪のうち、5,000坪を別院用に、残り2,800坪を法華寺用地に充てることとし、明治34年4月、法華寺は建物をこの地に移築しました。
ここで再び土地問題が起こります。というのは六条十九丁目の土地所有権者は、阿部氏等4名の名義になっていたのですが、これを身延山貫首に無償で譲渡したのです(もちろんそうしなければ別院建立は望めません)。
そして、釈
英儀師に立退きを迫ります。
一方、身延山では別院土地も決定したため、明治36年、小山田宣慶師を「旭川別院詰」の肩書きで派遣し、別院建設に当たらせます。
切羽詰まった釈
英儀師は、日蓮聖人の祖像と檀徒の位牌だけをかかえて立退き、建物全部を地主である4名に引渡しました。
釈
英儀師こそ二度も追い立てられるような形となり、反主流派の檀信徒は一様に涙をしぼったといいます。
小山田宣慶師は妙法寺第1世でありますし、妙法寺という寺号もこの方のときに公称を許可されている寺歴にとって大事な人です。
小山田上人は明治8年、熊本県八代郡吉野村高塚に生まれ、幼名を「運来」といいました。正中山(中山法華経寺)第五行成満、参籠2回、身延山流の修行入滝一千日成就とありますから実に自らを鍛えた僧といえましょう。旭川別院の大命を帯びて来旭したときは30歳の青年僧ということになります。
▲このページのトップ
釈 英儀師が悲壮な決心で、再々度新寺建設のため移転したのは、中島共有地と呼ばれるところで、現在の常盤町でした。ここにあった町有地約1町歩、3,000坪を借用します。
この地に移設した本堂庫裡に若干増築し、約83坪ほどの法華寺が再建されました。現在の地番でいえば上常盤町一丁目で、法華宗
光明寺の所在地がそれです。
紛争はまだ尾を引きます。
六条十九丁目に残った身延山派遣の小山田宣慶師の別院(正式名称ではないが)には参詣人がほとんどいないのです。皆、常盤町の法華寺に流れてくる状態が続きました。
困ったのは宣慶師です。
36年、身延山の命で別院建立の大命を受けて旭川町に赴任したものの、思わぬ抗争の渦中に巻き込まれてしまったわけですから……
そこで宣慶師は英儀師−というよりは法華寺側に和解を申し入れ、常盤町の法華寺に同居することになったのです。そして法華寺はその建物什器の一切を身延山に提供し、寺号を「身延山久遠寺旭川別院事務所」と称することになりました。
明治37年6月のことですが、このとき釈
英儀師は、「若し(計画中の)別院が出来ないような状態になったら、そのときには再び建物什器の一切を還付する」という約束を事務所側と結んでおります。
このあと英儀師は名寄に去ります。
名寄は、旭川から北では第一のまちであり、明治36年に開通した宗谷線の中心地であるため、村は鉄道開通によってなかなかの発展ぶりを見せました。
常盤町中島の法華寺、改め身延山別院事務所を追われるような形になった釈
英儀師は名寄地方に日蓮宗の布教を志しました。
英儀師は明治37年の夏から39年6月までの、ちょうど2年の間、名寄で布教活動を行いました。
▲このページのトップ
英儀師が名寄で布教活動をした2年間は、日本にとっての歴史上の大事件、日露戦争の期間に当たります。旭川市史年表にも「明治37年、38年には戦争のため不景気にして市中に活気なし」と書かれていますが、国をあげての大戦争だったため、国民生活は疲弊困憊の極に達していました。
こうなると、寺院の経営も容易なものではありません。
その戦争の最中の38年2月19日、小山田宣慶師は
「延寿山妙法寺」
の創立を北海道庁に出願しましたが、これに対し設立および寺号公称の認可が同年5月17日におりております。
このときから「妙法寺」の名が一般に用いられるわけですから、この日露戦争のまっただ中の明治38年5月17日という日は、妙法寺寺史はもとよりですが、ゆかりの人にとっては忘れることのできない日と言えましょう。
名寄にあった英儀師のもとに、小山田宣慶師および檀信徒の代表から「旭川の妙法寺に帰ってもらいたい」という要請がたびたびあります。
妙法寺は創立されたものの、経営も苦しく、またいずれ近いうちには堂宇建設の大事業も始めねばなりません。それには31年に日蓮宗説教所に赴任以来、粒々辛苦を重ねた英儀師を措いてはありません。
この懇請に応えて明治39年6月、釈一家4名(37年2月に長男
英吉が、名寄で長女
ふさがそれぞれ誕生)は、足かけ三年ぶりで常盤中島の妙法寺に帰ってまいります。
39年といえば、満州に出兵中の第七師団将兵が凱旋したのが3月、馬車鉄道が旭川駅から1線1号まで走ったのが5月、旭川消防組に初めて蒸気ポンプが入って常備消防夫が4人配置されたのもこの年のことでした。また、上川神社が無資格社から「村社」に昇格していますし、旭川電灯株式会社が設立され、火力発電で41年点灯を目指して工事が始まったのもこの年です。
名寄法華寺設立の先導的役割を果たして、旭川へ帰ってきた英儀師は、各地に出かけて布教に当たっています。
本人履歴書によれば、明治37年には「下富良野説教所」、38年「歌志内
妙法寺」を設立したとの記載がありますが、これら手塩にかけた各寺に出張していたものと見られます。
明治41年春、英儀師は歌志内の妙法寺に滞在していましたが、旭川町妙法寺の総代
出光利吉氏より次のような(文章の)手紙がきます。
「尊師ご出発後ますますご壮健のことと存じます。
さて、当時住職小山田宣慶師はこの度大阪の某寺へ転任の内命があった由です。そして去る五月十四日付で身延山(久遠寺)から、後任として橋本錬中師を派遣したい旨の申越しがありました。そこで昨十五日、早速総代会を開催して協議をいたしたのですが、尊師を後任にと衆議一決した次第です。
若しお差支えなければ(身延山に)推せんいたし度いと思いますので(就任の)可否折返し至急ご回答下さい」(原文候文のため要点口語訳)
という内容のものでした。
英儀師にはもちろん異存はありません。直に承諾を打電して旭川に向かいました。
こうして英儀師は、妙法寺第2世住職に就任いたします。
41年、小山田宣慶師は後事を託して身延山に帰ります。
考えてみますと、小山田宣慶師が別院建立の大命を受けて、旭川に来たのが明治34年ですから約7年間、いろいろと苦労を重ねています。
既述のように土地の問題や人間的な関係もあって、とうとう宣慶師は自分に課せられた別院建立などは望むべくもありませんでした。
しかし、いよいよ旭川を発つとき、さすがに宣慶師の胸中には千万無量の感慨が流れたと思います。
ただ一つ満足できたのは、とにもかくにもこの北海道旭川町に、妙法寺という寺を創立したことであり、その法灯の永からんことを祈って身延へ向かった
−と想像するのです。小山田(宣慶)日寿上人は身延に去ったあと、各地に出向いて寺院創建に力を尽くしています。
▲このページのトップ
釈 英儀師が名寄・下富良野・歌志内などにそれぞれ日蓮宗の寺院創立に力を注いだことは既述のとおりですが、第2世住職となってからもその努力は続けられています。
もともと内地、兵庫県の勝妙寺住職から北海道へ渡る動機そのものが、宗門の拡張を念願としていたのですから、単に一寺の住職として安住しているわけはありません。
その意味では、旭川妙法寺は「北海道弘教の中心地、宗勢拡張の拠点」でもあったようです。
そして、次に取りかかるのは、六条十九丁目の土地への本堂・庫裡新築という大事業です。現在の中島常盤町の妙法寺は早速、手狭で傷みも次第に進んでいたからです。
こうして新しいお寺を建てる計画が立てられます。
釈 英儀師は明治41年に みて夫人を病で亡くしています。そのとき長男 英吉(のち英哲と改名)はまだ4歳、長女
ふさは2歳の赤ん坊であり、早速にも後添えを必要としていました。
仲人する人があって明治41年11月11日、増毛町大字舎熊の古川市蔵氏の長女
ナミと再婚いたしました。新婦はまだ22歳でした。
堂宇建立の大事業は明治42年から始められました。後事予算は一万円と見込まれました。白米一俵が7円か8円のころですから、現在では想像もできない大変な金額といえましょう。
のちに英儀師は、この寄付金募集の苦労を手記の形で回想していますが、とにかく日夜これに係り切っていたようです。
寄付金は年賦払いが多く毎年、4月、8月、11月の三期に分けて納めることになっていましたが、経理担当には、出光利吉・滝波籐吉・沢登菊十郎の三氏が当たった……という記録も残っています。
寄付の分納が完全に終わったのは大正6年か7年のころで、担当の人々の苦労が思いやられます。
住職ならびに檀信徒一同が心血を注いだ本堂、庫裡の新築工事は、当時としては巨額の一万円余りの予算をもって、大正2年夏に完成しました。
ただ寺院の建設は、附属建物の関係(妙法寺の場合は最上堂など)や、寄付金の分割納入の関係もあって、本堂、庫裡の主要工事を第一期とするならば、附属建物や経理の完全終了など第二期事業があったわけです。この第二期事業の終わったのが大正5年2月23日となっています。
さらに未収寄付金の徴収や境内整備など、いっさいが終わって
−関係の役所に「竣工届」の出されたのが大正12年の9月18日ですから、着工以来実に17年の歳月を要したことになります。
寺院建立とは決して生やさしい仕事ではありません。
釈 英儀師
−真乗院日円上人は大正7年8月1日に遷化されました。
病因は急性肺炎、ときに52歳。働き盛りの惜しい歳といえましょう。
英儀師の遷化のあとも、第3世
河本英秀師、第4世 釈 英哲師、そして現住職、第5世 釈 英照と、法灯は綿々と受け継がれ、現在に至っております。
(「妙法寺史」より抜粋、一部改変)
▲このページのトップ